『いい?旦那。もしはぐれたら、人が通るまで待って、村の出口まで連れてって貰うんだよ?勝手に動いちゃ駄目だからね?出口まで行っても、そこで待ってること。俺様に会うまで動いちゃ駄目。…あと、人に名前を尋ねられても、「真田幸村」って言っちゃ駄目だよ?……何でって、俺達は偵察に来てるんだからさ、身分隠すのは当然でしょ。だから、名前…とりあえず、「源二郎」だけ名乗ってて。解った?』





「…うう…早速迷ってしまった…お館様に申し訳が立たぬ…!」
幸村は辺りの木々を見渡して深い吐息をした。同時に、泣きそうな言葉も吐きながら。佐助の言う通り、案の定、幸村は迷ってしまった。佐助と共に、信玄の命令により尾張の様子を探りに来たのだが、こんなにも早く迷ってしまうとは。しかも何故か森に入り込んでしまっている。どうしたものかと幸村は頭を抱えてしゃがみ込む。森、という入り組んだ地形のせいで、村の方角が判らない。獣道さえ無い。重ねて、
「…腹が、減った…」
そういえば昼飯がまだだった、と幸村は、遠のいていく意識の中で思ったのだった。



「おい、おい!お前!生きてるか?!」
キンキンとした子供の高い声が聞こえて、幸村の意識は深層から浮かび上がった。おまけに、体を揺さぶられているらしい。ゆっくりと目を開けると、そこにはまだ幼さの残る子供が立っていた。前髪を上げて縛り上げ、深い紫色の服を着ている。地元の村の子供、だろうか。幸村はそんな事を考えながら、体を起こした。子供は、幸村が起き上がったのを見遣ると、なんだ?、とばかりに幸村を見つめていた。
「お前何してるんだ、こんなところで。農民か?」
不思議そうに幸村の顔を覗き込んでくる。くっきりとした大きな目で見つめられ、幸村はきょとんとした。ぼーっとその子供を見ていると、子供は、おい聞いてるのか、と少々怒った様に言った。幸村は慌てて口を開いた。
「俺は農民ではないっ、俺はたけ、……」
「たけ?竹?」
言い掛けて、幸村は口を噤んだ。佐助の言葉を思い出す。名乗るな、絶対にお館様の名前を出すな。それが、この偵察での決まり事。危うく、信玄の名を口にする所だった。幸村は、怪訝な顔をした子供に、何でもないと首を振る。何故かその場に正座をして、改めて名乗り直す。
「俺は、源二郎。…訳あって、近くの村に来たのでござるが……その、迷ってしまって」
「迷ったぁ?…ははーん、なるほどね。お前バカじゃん?」
「なっ…!莫迦ではござらん!俺は、方向音痴なだけだ!」 幸村の回答を聞いて子供は、なるほどとばかりに頷く。そして目を緩く細めて、小馬鹿にした様に幸村に言った。かっとなった幸村が慌てて言い返すも、子供は馬鹿にした表情をそのままにけらけらと笑うだけだった。ぷるぷると震える幸村を尻目にひとしきり笑うと、子供は漸く幸村に向き直った。それから、おかしげな口調で言う。
「しょうがない大人だなぁ。もっとしっかりしろよ。…えーっと、村に来たんだって?しょーがねぇから、蘭丸が村まで案内してやるよ」
「ほっ、本当でござるか?!」
「本当本当。ありがたーく思えよ?」
偉そうに言う子供に、幸村はこれ幸いとばかりに嬉しそうに目を輝かせた。子供はにんまりと笑って、幸村を立たせる。幸村は尻や足に着いた土を払って、歩き出した子供の後をついていく。森の中の景色は何処を見ても同じに見えるが、子供は行く先がきちんと判っている様にしっかりと進んでいく。幸村も、その子供を見失わない様にぴったりとその後ろを歩いていった。
「そういえば、童。名を何と申す?」
「童とか言うな!名前は蘭丸。森蘭丸だよ」
「森、蘭丸…」
その名前を何処かで聞いた事がある気がして幸村は首を傾けたが、結局思い出せずじまいで、記憶を呼び起こす事を放棄した。幸村と蘭丸は、森の中を歩く。



暫く歩くと、村の一端に出た。確かに見た事のある景色だと幸村は思い、小さく感嘆の声を上げる。蘭丸は得意そうに、腰に手を当てていた。
「蘭丸殿!よく案内して下さった!感謝の極みでござる!」
「おーおー感謝しろよー。ていうか、何かお礼くれよ」
「お礼…でござるか…、…しかし、俺は何も持っておらんのだが…」
「んー…、じゃあ、おい、お前、ちょっと屈め」
「…?……こうでござるか?」
蘭丸が、ちょいちょいと手を振って言うので、幸村は何の疑いも無く屈んだ。丁度、蘭丸と目線が合う程度に。そうしていると、蘭丸は幸村の両頬をがっちりと掴んで固定し、あっという間にその唇を、幸村の頬へ落とした。一瞬だけのそれは確かにあっという間で、蘭丸はぱっと手を離す。それから、「へへー」と嬉しそうに笑うのだった。一方幸村はと言うと、突然の事態に何が起こったのか解っていないのか動きを止めていた。少しの間ぴたりと動かぬままでいると、突然時が動き始めた様に数歩後退る。ごしごしごし、と頬を拭う様にして。
「なっ、ななななっ、な、ッ何をする?!」
「何を、って。接吻に決まってんじゃん?何驚いてんだよ」
「せせせせ、せ、せせっ…は、破廉恥な!」
「はれんちィ?こんなの挨拶みたいなモンだろ」
変な奴、と蘭丸は怪訝に幸村を見た。対する幸村は顔を真っ赤にして、未だに頬を擦っている。そんな幸村を小馬鹿にする様に、蘭丸は頭の後ろで手を組んだ。けら、と笑う。
「何も持ってないとか言うから、こうしたんだよ。いいじゃん別に、減るもんじゃなし。蘭丸なんか、いっつも濃姫様にしてもらってるぜ?……信長様はしてくんないけど」
「そういう問題ではっ、……、…何、信長?」
蘭丸が言った言葉にふと幸村の顔つきが変わる。今この子供は何と言った。何の名前を口にした。信長様と、そう言わなかったか。この尾張で、信長と言えば、それはつまり。
「蘭丸殿、おぬし信長を」
「あーっ!旦那そんな所に居たのかよ?!」
蘭丸の両肩を掴んで問い質そうとした時、一つの声がそれを遮った。幸村がハッとした様にそちらへ顔を遣る。蘭丸も、そちらを向いた。そこに居たのは町人風の変装をした佐助で、慌てた様にこちらへ走ってくる。隣まで来ると、もう、と小さく零した。
「やーっぱり迷子になってんじゃん!だから言ったろ?もう、大人しくしててよね?!…ん、何、この餓鬼」
「おい、ちょっと待てお前、餓鬼ってなんだ、餓鬼って!蘭丸の事を言ってるのか?!」
むっとした様に蘭丸が声を荒げて言い返す。ふと、佐助は一瞬眉根を寄せ口の中だけで、蘭丸、と呟いた。幸村も蘭丸もそれには気付かなかった様だが、そして佐助はすぐに顔を戻し、へらりと笑ってみせる。
「そうそう。お前の事だよ、餓鬼んちょ。旦那、これ、何?」
「これとか言ってんじゃねぇー!あのな、蘭丸は、迷子になってたこいつを此処まで連れてきてやったんだぞ!恩人なんだぞ!」
「え、あ、そうなの?いやー…こりゃ悪い。旦那がお世話になったね。ほら、旦那、きちんとお礼言った?」
「あ、あぁ…」
「もういいよ。お礼は貰ったから。な、あかいの」
「え、あ、いや、その」
にんまりと笑って蘭丸の言った言葉に、幸村は顔を真っ赤にして視線を反らした。ばたばたと忙しなく手を振って否定する様な仕種をするが、肝心の言葉は口に出ない。そんな幸村を不審に思ったのか、佐助は幸村の顔を覗き込んできた。
「ん?どしたの旦那。顔赤いよ。熱?」
「いやあのそうではなくてだな…」
「…まあいいや。とりあえず、ありがとな、餓鬼んちょ。んじゃ、俺達急いでるんで、もう行くわ。ほら、旦那、行くよ」
挨拶もそこそこに、佐助は幸村の腕を掴んで歩き出す。ちょっと佐助、と制止する幸村の言葉を無視して、佐助は足を止めなかった。呆然とした蘭丸の視線に気付き幸村がそちらを見遣る。蘭丸も幸村の視線に気付いて、にかっと笑った。ぱたぱた、子供特有の細い手を大きく振る。
「またなー!あかいのー!」
幸村はまた自分の顔が赤く、熱くなるのを感じて顔を反らした。ひら、と軽く手を振って、小さくなる蘭丸の姿を、もう見る事は出来なかった。

「……変な奴だったなぁ…」



幸村が、蘭丸は織田信長の小姓だという話を佐助から聞いたのは、蘭丸の姿が完全に見えなくなってからだった。










尾張にて
(長い…。)





















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